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『さよならジュピター』で誰もが見逃している話

お題「我が家の本棚」
ここでは題名と名称を恣意的に表記します。[敬称略]

さよならジュピター (徳間文庫)

さよならジュピター (徳間文庫)

現在大ヒットしている某アニメ映画でアノ曲が流れて以来、急に浮上した、映画『さよならジュピター』。

映画『さよならジュピター』とは『日本沈没』や『復活の日』などの作品を持つSF作家 小松左京が自著を自ら映画化したモノだ。

物語は2125年、太陽系に進出した人類と地球に住む人々との軋轢がある中で、開発中の火星で偶然に発見した地球外文明の痕跡が、プロジェクト「太陽化計画」が進行している木星の中に存在している、謎のジュピターゴーストのを示していると、その一方で太陽系に向ってくるマイクロブラックホールが観測されて、主人公等は否応なしに人類最大の危機に対処する計画に参加する事になるが、そこに過激な自然保護団体、ジュピター教団が計画を阻もうと妨害工作を仕掛けてくる流れになっている。

この作品が制作発表された際は、ハリウッド並のSFXが観られるかもしれないと、その期待も大きかったらしいが、いざ公開されると、すぐさまヘッポコ作品で失敗の烙印を押されて、今でも批判的に語られている映画だ。その要点は……

① ジュピターゴーストの件はいらない。
② ジュピター教団の件はいらない。

この2点だ。つまり、単純にブラックホールと人類との対決だけを描くべきだった。と言う批判。

因みに自分の映画の評価は内容のスケールが予算の身の丈に合わないプロデュースを失敗した作品。と言うところなので、それに賛成!……と、言いたいところだが、小松の原作を読んでしまうと、実は上の2点が『さよならジュピター』のキモなのだという事が見えてくるので、「小松先生は絶対にそこは外さないだろうな」とも、オレ考えているのだ。

実は『さよならジュピター』とは、あの日本人でも名前くらいは知っている、SF作家アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』のカウンターとして書かれているからだ、つまりは「反2001年宇宙の旅」の位置として『さよならジュピター』はある。

2001年宇宙の旅』の内容を語るのも、今更なのだが、かい摘んでゆくと、生物の進化を加速させる、神の様な高次な存在であるモノリスと人類との関わりを描いた作品で、後に3作も物語がある一大叙事詩とも言える物になっている。その反論として書かれたのが、本書であり、映画なのだ。

その裏付けとしてあるのが、小松はクラークの作品群の中でも『幼年期の終わり』には批判的なのだが、別のクラーク作品『太陽系最後の日』には肯定な意を示しているから。『幼年期』は『2001年』と同じで、人類の進化を高次の存在が導く話になっているが、『太陽系』の方は太陽の爆破で地球に存在する知的生命体を保護するために異星人達が救助をしようと地球にやってくるが、そこに知的生命体こと、人類の姿は無かった。どうやら人類は自らの力で宇宙船を建造して未知の大宇宙へと旅を始めたらしい事実を知った異星人達は人類という種に驚嘆する話なのだが、ここまでピンと来た人は『さよなら』とは『太陽系』の裏返しなのだと気が付いたはず。

だから、ジュピターゴーストの件は省略出来るはずも無いのだ。それにSFの視点からも、木星の質量で軌道を変える事ができるブラックホールなど自然発生する訳が無く、だから地球外文明の設定は必要になる。

つまり本書は宇宙へと進出した人類という種のバイタリティを描いているのだ。


なので、ジュピター教団の件も、宇宙との対比でどうしても必要となってしまう。この部分を描かないとバイタリティの所が弱くなってしまうからだ!

ジュピター教団とは自然を愛しているからリベラリズムと認識されがちだが、宇宙の視点(SFの視点とも言って良い)を插入すれば、それは保守的な考えになるから。

だけども、小松は「愛」という視点で、そういった考えを頭から否定はしない。だから、イルカのジュピターの歌が惑星のジュピターへの哀歌へと変換する。させるのだ!そして、これもまた「反2001年宇宙の旅」なのだ。

ここまでで解るのは小松左京という作家はロマンティストだという事実。それも途方もなくロマンティストというべき顔である。

映画『さよならジュピター』のセリフで森繁大統領が「人類の智慧と勇気に祈りたい」と呟くと側近が「祈りではなく、賭けたい。では?」と問いかけると、森繁大統領は「やっぱり祈りたい」返すシーンは小松左京がロマンティストである証明にもなっている。それは、「神話・伝承、古典・通俗などのすべての文学がSFの視点からは相互に等価とみなせるだけではなく、科学的シミュレーションや歴史の相対化もSFは取り込める」と指摘して「SFは文学中の文学である」、「SFは希望である」と断言した小松の文学者としての信念であり、矜恃でもある。そして人類こと人を信じる小松文学の根幹なのだ。

だから、この部分を抜いて映画『さよならジュピター』なぞ成立しないし、そんなものは小松左京作品ですらないのだ。

以上、これにて終了。

恥ずかしながら、これも貼っておきます。
eizatuki.hatenablog.com